伊熊 清明(Kiyoaki Ikuma)


 東京生まれ 育ちは親の転勤で、東京→岩手→千葉→茨城と

小学校は3つ行きました
小さいときから、身体を動かすことは大好き
 だけど、みんながやってる野球は超下手くそ(今でも)
ボールはまっすぐ投げられない、バットは振っても当たらない
出来るのは、バントだけ足はそこそこ速かったので、バントヒットばかり狙ってた
 小学校4年生から、サッカーを始めると、こちらの方が性に合っていたのか、レギュラーにもなり、試合にも出られるようになり楽しかったなぁ~
 小学校6年生の時は、市内の選抜チームに入るほどになっていたが、中学校では坊主頭にしなきゃいけないのが本当に 嫌で 嫌で嫌で嫌で嫌で 、部活に入ることを辞める
高校もサッカーやりたいなぁと思いながら、やっぱり坊主
なんで坊主なのか?入学時に竹中直人そっくりの生徒主任に聞くも、明確な答えが得られず、不信感だけとなり結局入らず
 そのころ、父が審判を行うようになり、たまについて行ってみていると、サッカーの別の一面が見えて面白そうと思い、社会人になってからレフェリー資格を取得。ちょうど、フランスワールドカップで日本人初の主審が誕生し、勝手にあこがれてワールドカップを目指すようになる
奇しくも、NHKの番組にあこがれの方が出演することがあり、観覧に応募したら見事当選
スタジオへ行き、観覧すると自分自身もオーディエンスとしてちょっとだけ出演もし
ますます、本気でワールドカップを目指すようになる
県の強化審判にもなり、順調に思われたが膝を痛め、徐々に出場機会が減る
同時に仕事との両立も難しくなり、フェードアウトするようにレフェリーを断念する
当時の仕事は、公務員
別に安定も求めてないし、お国のために的な考えもあるわけではなく
もともと、小学校6年生の時に初めて乗った飛行機に衝撃を受け、大の飛行機好きとなり、将来の夢はパイロット(単純)
勉強も頑張って、航空大学校を目指したが、中学の頃から視力が落ち始め、裸眼視力が受験資格を満たさなくなり、断念
そんな時、近くに住む方が空港勤務で成田空港の新しい(当時)管制塔を見学させてくれた
普通入られないところに入れた嬉しさ、間近で見る飛行機の迫力に圧倒され、空港で働きたいと思うようになる
そこでその時に見た、運輸省 航空保安大学校のポスター
「これだ」と思い、一念発起して勉強する
高校3年になり、受験
一次試験合格、喜んだのもつかの間、二次試験で落ちる
あきらめきれず、仮面浪人をしながら1年後に再度挑戦
同時に「何としても空港で働くんだ!!」という考えから、一般の公務員試験も受験
2年後、なんとか事務官として入省に成功する
結果として10年間働いた
大好きな航空業界
いやなことは一つもなかった
その間に、旅行で訪れた屋久島
都会のせかせかしたものとは違う時間の流れ方に心地よさを覚え、足しげく通うようになる
その回数10回
ある時、知り合いの果樹園を手伝うことになり、農作業を初めて行った
朝8時ぐらいから働き、休憩・昼食をはさんで17時過ぎには仕事が終わり、18過ぎにはダレヤメ(鹿児島弁で晩酌の意味)
東京では毎日日付が変わるぐらいまでの残業が続いていた時にこの生活は「なんて人間らしい生活なんだろう!」と衝撃を受ける
いつか、こんなところでカフェでもやりながら、人間らしく生活したいなぁ~
漠然と考えていた移住への思いを、31歳の時に実行に移す
屋久島では、通信生の高校で働く(結局サラリーマン)と同時に、ガイド業も行うようになる
そして2013年12月
ウィルダネスファーストエイドと運命の出会い
職業柄、お客様の命を預かっているわけで、若手ガイドを中心に受講者が増え始めていた時代
私も受講者の一人でした。
当時は4日間の集中講義でしたが、文字通り身も心もボロボロに
しかしながら、プログラムの内容や現実味を帯びた状況に、危機感を持った私は、当時勤めていた高校でも広めるべく奔走する
そこから、複数回の資格更新を続け、2020年アンバサダーに就任
より深くかかわりを持つようになると、更なるステップアップを考え、2023年インストラクターを目指すことを決心
 この度、何とかインストラクターになることが出来ました
これからは、より多くの方々に、わかりやすくプログラムを伝えるために日々精進してまいります
コースでお会いした際には、いろんなお話をしましょう!